結局続かなくて放置。
でもどこにも書きづらいようなことがあると最後にはここに逃げ込みたくなる不思議。

ハタチにもなって(ああ、9月8日が誕生日でした)母校の文化祭で放送室に居座るというのも割とアレで違和感もありつつ、しかしまあ会いたい、話したい、あるいは見届けたい後輩も多くいるもので帰ってきてます。

そんな感じで文化祭。行ってきました、今日。
何のことはない、つつがなく終わっていく様子を所在なげに一日見守るだけのお仕事でした。
残暑の日差しはまだ強く照りつけて、もう戻ってくることはないであろう9月の体育大会に思いを馳せたりも。

2年目になるというのに同級生もある程度いるもので、しかし彼らとは明らかに帰ってくる動機もずれているし、もとより在学中の(今は少しだけマシになったと信じている)深刻な非コミュも手伝って彼らとはあまり話さずに終わりました。
模擬店+放送業務と人繰りも大変ながら、僕らが引退した次の年からの三度目ということもあり割とそういうものとして進んでいたり。
当時の体育大会>文化祭思考も手伝ってかなり一歩引いて見ていた感もありましたね。


体調不良を押して戻ってきた去年の文化祭で印象深かったこと、つまり今年戻ってくるにあたって強く思い出していたことが3つあって、

・新型インフルで体育館使えず(=映像流せず放送委員ニート化)
・フラれたあの娘とのご対面(顔面ひきつりver.)
・「17歳」という年の美しさを意識

的な。とくにみっつめですか。
正直ある年齢を長い時系列の中で捉えられるようになるとしたらそれはその時代が過ぎてからでしょう。
18歳、高3のときは必死でただ必死で、そんなことを考える暇がなかった。はじめてOBとして戻ってきたあの体育大会のときはなおのことそれどころではなかった(ひきつり笑い)。

そんなこんなで、同期と一緒に戻った去年の文化祭。
消えない傷はしかし痛まなくなり、ああ、消えないんだなあこれ、という諦念に変わりつつあった頃。
夏風邪をこじらせた悪寒と頭痛とともに出会ったのは、当時の執行代のみずみずしい輝きでした。

なんだろう、あまり世話をした覚えのない学年だったので(学年として、少し「弱い」感じだった)、あまり期待もせずというと失礼だが、楽しくつつがなく終えてくれたら、と思うばかりだったのですが、あまりにもつつがなく終わったばかりか(まあ深刻なニート化もあったが)あまりにも楽しそうで、まったくもって僕はあの日「17歳」にあてられて、同期の友人とともにその美しさを語りあったのでした。むろん自分たちの頃を懐かしく思い出しながら。


今思えば環境面もあるのでしょうね。
執行代が高2、つまり17歳になる年。そして9月の文化祭(と、僕らの年までは体育大会も)が終わると受験戦争に徴兵される。人を殺せと教えしや。
しかも自分の話をさせてもらえば、前述のように誕生日が文化祭直前なもので、17歳といえば文化祭あたりで始まってあの最後の体育大会でロスタイムとともに終わったものなんです。

「今思えば」というのは本当に今はじめて明確に意識したことでありまして、きっかけはといえば今日話した現高3の女の子のようすでした。
ええ、僕の中での彼女の印象は、あの「17歳」のときのものが最も強いわけで。
(いや、たぶん彼女はまだ17歳だったような気がしますが)


なんだろう。妙にくたびれていた。


5月の体育大会はまだ高3メインみたいなところがありますからそうでもなかったのですが。
体育大会と文化祭が切り離されるとともに高3はこの時期にも勉強勉強みたいな、そんなつまらない感じのアレもあり。

いや、受験生としての夏を越えたらそりゃくたびれるよってのはあるし、昨日返却された模試の結果が親の逆鱗に触れたんだってさ(僕の両親はその点完全に放置してくれたからその感覚だけはまったく解らないのだけれど)。


元々すごく、元気で素直ないい子だし、実直という言葉が正しいのかはわからないけれど、東大洗脳教育にも負けずに、自分の意志でそことは違う第一志望を選んで。
実際に見ているわけでも、あるいは評価できる立場にあるわけでもないが、ひたむきに努力しているのでしょう、おそらく。

割とショックだった。焦ってるな、って感じ。
成功に伴う自己肯定と客観性の欠如によって捨象されていておそらく自分も多少なりともそうで、自分より状況の厳しかった周りなんて露骨に、だったことなんて解ってはいるのですよ。


浪人中の後輩にも電話をかけてみたりして、似たようなことを感じました。
「まだ安全圏じゃないんで」「これ以上話すとネガティヴなことばっかり言いそう」とか。



通過儀礼のようなものなのかしら。試練なのかしら。
バンジージャンプなのかしら。

できるだけ高いところから飛び降りる、できるだけ名の通った大学を目指すのがよしとされるのは何故?

うまく言えない。


自分にとっての「てっぺん」が他人の云うそれと一致する必要はないわけで、あるいは「てっぺん」ではない場所でも、ここは自分が選んだ、あるいは導かれた場所なのだ、と最後には思ってもらいたい。
過程に思い入れを持つからいけないのかしら。

頑張ってほしいし、それがあなたの夢ならば、その夢をしかとつかみ取ってほしい。
でも夢を追いかける過程は博打であってはならないと思うし、すべてを賭すにはあまりにも。



と、今年の執行代、17歳の姿を見つめる一方でそんなことを考えていたのです。

世話したのはこの世代が最後、ちゃんと知っているのが次の世代が最後。
次帰ってこられるかは、そのへんも含めて、あるいはその他の事情も含めて微妙なのかもしれません。


どうしようかな。多分調整はつくのだ、結局。
正直まだ、どうにでもなることのほうが多いというか、まあ何とかなるということは特に二度の5月に思い知っている。


あいつらがちゃんと受かったら戻ってくるだろうから、そうなったら考えよう。
もう一度元気なあいつらに会いたいところ、といういろいろ台無しな身勝手とともに明日夜行バスに乗ります。



押し寄せてくる学園祭の仕事の波が鬱でしかない。